yokohamanekoの日記

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「ラストソング」 野沢尚

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「ラストソング」 野沢尚 講談社文庫

店頭で、
野沢さんの文庫本を見つけて狂喜したのは言うまでもない。
しかし、裏表紙にある「青春小説」という言葉を見て、
やや落胆した。
私が今まで読んだ作品は全て犯罪小説である。
犯罪という極限における状態の中で、
人がむき出しにする人間性を楽しみに読んできた。
それが青春小説にあるのか・・・。

答えを言ってしまおう。
あり過ぎる程、あった。
書き手に度量があれば、
ジャンルなど関係ないということが、改めて分かった。

そしてこの作品を読み終わったときに感じたこと・・・。
ある事件の後に、ふと考えて思ったことと似ていた。





1992年、4月25日、歌手の尾崎豊さんが亡くなった。
死因や他殺説などで、いまだにミステリー的に取り上げられる
事が多い。
当時、多くのマスコミは「若者のカリスマ的存在」として、
尾崎さんを表現した。虚ろな記憶だが、この頃あたりでも、
すでに「カリスマ」という言葉は乱用され、かなり安っぽくなっていた。

「カリスマ」というのは、超人的、非日常的な英雄や預言者などを
差して言うギリシャ語なのだそうだ。

正確な歌詞など知らないが、
「校舎の窓ガラスをぶち割る」だとか、
「盗んだバイクで飛ばす」だとか、
「なにもかも許される恋じゃなから」だとか、
なにやら青臭い歌を作る人がカリスマ?

別に歌を批判するつもりはないが、
少なくとも、カリスマと言う言葉が当てはまるのか?
ただのピーターパン・シンドロームではないか?

人気歌手であったことは間違いないのだろうが、
彼が死んだことではなく、妙な死に方をしたから、
マスコミは大騒ぎしているのだろう。
そっちの方にむしろ反感があったのだ。

しかし、何かが引っ掛かる・・・。
事件当時、あちこちで尾崎さんの曲が流れた。
暴力的な歌詞、
女を口説くには甘すぎるラブソング。
地声丸出して、まるでテクニックのない歌い方・・・。

そして、ひとつ気づいたことがあった・・・。
もし、私が十代で尾崎さんの歌と出会ったなら・・・、

私は、彼の曲に夢中になっていたはずだ。
擦り切れるほど曲を聞き、彼の真似をして、
ギターを掻き鳴らして、彼の歌い方を真似て、
それこそ、私のカリスマになっていたはずだ。

何故今はちがうのか・・・。
それは・・・、
私が、尾崎さんが、歌の中で最も忌み嫌った
「くだらない大人」になってしまったからであろう。

処世術と、常識、分別、これらを武装し、
喜びも、悲しみも、怒りも、他人とのいざこざが起きないように、
押さえ込まれてきた。
それが、尾崎さんの言葉でいうところの「くだらない大人」
なのだ。

私だって、中学くらいの頃から、吉田拓郎に夢中になっていた。
ボブ・ディラン反戦歌に賛同し、反体制をかかげるロックに
握りこぶしを上げた。

しかし、熱い思いは年齢とともに冷めたのも確かだ。
その熱い思いを抱いていることが出来た年代。
それを青春とかって呼ぶのか・・・。






本の話に戻る。

良いとこのお嬢様だったリコは、強姦まがいの関係を強いられ、
しかし、シュウに惚れてしまう。
シュウは博多のライブハウスでは人気者だった。
シュウが認めたギタリストのカズヤ。

そしてベース、ドラムス。
バンドのメンバーを従え、リコをともない、シュウをはじめとする
五人は、上京する。
しかし、芸能界というのは、そんなに甘いものではない。

紆余曲折しながらも、バンドは頑張るが、五人は三人に・・・。

リコ、シュウ、カズヤ、三人の葛藤が始まった。



まさに青臭い小説だった。
青春小説なんて、こんなもんである。

そういいながら、何故お前は最終章で、号泣していたのだ?
そう言ったのは私自身だし、言われたのも私だ。
「くだらない大人」になってしまった私の中にも、
「青臭い青春少年」の私は、かろうじて生きていたらしい・・・。
それが、嬉しかったか?

なんとでも言え!

私は私自身と葛藤し、自問し、自責し、なにかを正当化しようとし、
結局、出来ずに、ややこしい理屈や感情を、放り出してしまうことにした。

「くだらない大人」の私は・・・、
彼らの生き方が、羨ましかったのだ。
分別をわきまえた大人として、彼らを見下すには、
あまりにも彼らは無分別で、輝いていた。

誰にでも、無分別で、輝いていた時があったというのに・・・。


またしても、野沢尚さんにやられたようである・・・。