yokohamanekoの日記

横浜で猫2匹と暮らしております。

12月8日という日

12月8日という日


1980年、昭和55年に私は高校を卒業し、就職した。
就職先は一応、一部上場の企業だった。毎年グループで二万人という
採用があり、マンモス入社式としてマスコミが取り上げた。
私の時も、中野さんプラザというところで入社式が行われ、芸能人が
華やかに歌い、社長を始め、常務だの専務だのとよくわからないが、
きっと凄く偉い人たちがいろいろしゃべりまくった。

華やかな入社式の後、我々新人は泊まりこみで一週間の研修に入った。
ここで我々はいっぱしの企業人となるべく、徹底的なる洗脳を受けるのである。
朝から晩まで怒鳴りまくられ、説教を受け、正座をさせられ、ともかくも「出切る」
までやらされる。「出来ない」は許されない。
結果だけで評価され、そこに至るまでの努力など、一切認知されない非常なる
世界を始めて知ることになる。
恐るべき事に、二万人という人間が、会社のマニュアル通りに規格統一されて、
現場に配属されて行くのである。

毎日が慣れぬ仕事の連続で、精神的にも肉体的にもへとへとだった。
高校の時、ロックミュージシャンになりたいなどと、情熱だけで儚い夢など、
ひとたまりもなく踏み潰してくれるほどの疲労だった。
それでもかろうじて、音楽を聞く事はやめず、ギターも弾き続けた。

そんなときに舞いこんだ悲報…。
ジョン・ボーナム死去。

9月24日、ロックバンド、レッドツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム
自宅で死去した。レッドツェッペリンは解散した。ショックだった。
ロックファンでなくとも、洋楽ファンでなくとも、ツェッペリンの名前位は皆
知っている。それほど偉大なるグループだった。私も多大なる影響を受けた
一人である。
現在、70年代に活躍したグループが注目されたり、再結成されたりしている。
しかし、ツェッペリンは終わった。


そして12月8日…。

すでに午後10時も回った時間帯に私は帰路についた。すでにそう混んで
もいない電車の椅子にぐったりと座りこんだ。ちょうど正面に座っていた
やはり帰宅途中のサラリーマンが夕刊フジを広げていた。
一面が私の方から見えた。

ジョン・レノン 射殺される」

でかでかと並んでいた見出し文字を理解するのに、かなりの時間を有した。
これほど、簡単な意味が理解出来ないでいた。いや、意味は理解できたのだ。

しかし、感情が拒否していた。
そんなはずはない。
ありえない。
あってはならない。

新聞を読んでいたサラリーマンは、自分より先に下車した。そのときに
棚に新聞を放り投げて行った。私は置き去りにされた新聞を恐る恐る読み、
悲しみでなく怒りを感じていた。

射殺した犯人への怒りか?・・・違う…。

ジョン・ボーナムが死んだとき、私はレッドツェッペリンを「取り上げられた」
ような気持ちだった。そして今、ジョン・レノンを「取り上げられた」と思った。
そして、ビートルズも永遠になくなった。
なぜ、こんな短期間のうちに、いろいろなものを取り上げるのだ?
私の消え掛かりそうになっていた音楽への情熱を、誰かが完膚なきまでに
踏み潰した。それに対する怒りなのだろうか?

今、考えれば、被害妄想も甚だしいが、まだ19歳だった私の精神はまだまだ
ピュアーだったのだろう。ビートルズとレッドツェッペリンの喪失は、如何とも
しがたい衝撃を私に与えたのだった。

あれから早いもので26年が経ってしまった。
今、私は純粋に音楽を楽しんでいる。若い頃に持っていた情熱も欲望も
むろん無い。
今日も布袋寅泰のアルバムを買って、聞いている。ご機嫌なロックンロール
が流れる。偶然だが彼と私は同じ歳である。彼も26年前、感じただろうか?
どこにも持って行けない理不尽なる怒りを…。