yokohamanekoの日記

横浜で猫2匹と暮らしております。

「さまよう刃」 東野圭吾

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さまよう刃」 東野圭吾 角川文庫

東野圭吾さんは、今や、押しも押されもせぬベストセラー作家である。
本は売れにうれまくり、書店での平積みは数多い。
作品は次から次へと映画化、あるいはドラマ化され、
その作品はいろいろな分野で愉しまれている。

私も何冊か読んだことがある。
確かに面白い作品を書く人だ。
読み始めると、読者を作品の中に引き込んでしまう。
しかし、読後は「面白かった」という満足感しか残らないのだ。

面白ければいいではないか、と反論を持つ方はおられよう。
つまらない作品より、面白い方が良いに決まっている。
しかし、なにか、なにかがひとつ足りないような気がするのだ。


私は以前、森村誠一さんの作品に没頭したことがある。
人間の深層心理をぶちまけたような、まさに「人間のドラマ」は、
私を打ちのめし、虜にした。
読後は、面白かったどころではなく、溜息を何度もつき、
まるで作品に魂を抜かれたかの如く虚脱した。
これぞ、まさしく森村さんが常々目指しているといわれた
「人間のドラマ」なのだと思った。

そういった森村さんの作品に、東野さんの作品は、
まだ一歩及んでいないのではないか、と私は考えていた。
しかし、これは私の個人的好みであり、東野さんの作品が、
森村さんの作品に劣るなどと言っているのではない。
念のため。


そして、今回、以上のように思っていた考えを、
改めなければならなくなった。
「さまよえる刃」によって・・・。



長峰は、高校生の娘、絵摩を殺された。
絵摩は花火大会の帰り、不良少年グループにより、
拉致され、覚醒剤を打たれ、輪姦され、江戸川に捨てられた。

片親ながら、愛情を注いできた娘の死に、長峰は警察への
協力を惜しまなかったが、警察は捜査状況を教えない。
そんな時、長峰に密告電話が入った。

不幸にして、長峰は警察権力よりも先に犯人の居場所に辿り着いた。
そこで長峰が見たのは、一本のビデオテープだった。
そこには愛する娘が、ケダモノ二人によって蹂躙される一部始終が、
映されていた。
長峰の中で、怒りと悲しみと、そして憎悪が沸騰した。
そこに、とうの本人の一人が帰ってきたのである。

長峰は、ケダモノの一匹を惨殺した。

ケダモノはもう一匹いる。
長峰は、若い頃、趣味で射撃をやっていた。
銃を手に、長峰は姿を消した。



誤解を招きそうな書き出しなので断っておく。
これはハードボイルド小説ではない。
長峰はただのサラリーマンである。
ハードボイルド小説に登場するようなスーパーマンではない。

長峰に、自分のやっていることは犯罪であることの認識は
十分にあった。それ故に躊躇も生まれた。
しかし、不良少年たちの犯行は常習で、死に至らぬとはいえ、
多くの被害者がいたことを知るに及び、長峰の躊躇は消えた。

彼らは未成年者である。例え警察に捕らえられたところで、
法律は彼らを守ってくれる。
それが、正義か・・・。


読み進めるにつれて、犯人に対する憎悪は膨張する。
長峰を応援したくなる。子を持つ親ならば尚更のはずだ。
それが例え法に背く行為だったとしても、である。


正義とは何か?
法律とは何か?

法律は正義ではないのか?


事件後、この問いに、事件担当刑事が答えている。

「警察というのは何だろうな・・・
 正義の味方か? 違うな。
 法律を犯した人間を捕まえているだけだ。
 警察は市民を守っている訳じゃない。
 警察が守ろうとしているものは法律のほうだ。
 法律が傷つけられるのを防ぐために、必死になって
 かけずりまわっている。
 ではその法律は、絶対正しいものなのか。
 絶対に正しいものならなぜ頻繁に改正が行われる?
 法律は完璧じゃない。
 その完璧でないものを守るためなら、警察は何をしてもいいのか。
 人間の心を踏みにじってもいいのか」



悲劇的なるラストシーンと、この刑事の言葉に、
私の目頭は熱くなった。

本当に久し振りに、私は「人間のドラマ」に出会った気がした。