yokohamanekoの日記

横浜で猫2匹と暮らしております。

「ようこそ、わが家へ」 池井戸順

「ようこそ、わが家へ」 池井戸潤 小学館文庫
 
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 身近に潜む恐怖と言うものがある。例えば痴漢の冤罪。一時話題になった事がある。痴漢と言えば当然卑劣な行為であり、被害女性に同情が行くのがごく当たり前の事だ。以前は女性が申し出れば簡単に犯人にされてしまった。ところがある男性が断固として無罪を主張し、20日以上も身柄を拘束され、裁判に臨んで無罪を勝ち取った。無罪は勝ち取ったが、無罪であるにも関わらず、彼は社会的に大きな制裁を受けてしまった。
 犯罪裁判に関わったと言うだけで彼は社会から抹殺されそうになったのである。恐ろしい事だ。
 
 ストーカーと言う輩がいる。勝手に好意を持たれ、勝手に付きまとわれ、挙句の果てに命まで狙われる。逆のパターンもある。些細な事を根に持たれ、謂れのない無い憎悪を受け、復讐と銘打って危害を加えられる。
 
 本書ではほんの些細な日常の一コマからその恐怖が始まる。
 
 
 
 
 倉田太一は会社の帰り、電車で乗り込む順番を守らず、割り込みをかけた男を注意した。男は倉田に反抗的態度をとったが、まわりが倉田に加勢したためにその場を立ち去った。
 ところが倉田は男に尾行されていた。真面目なだけが取り柄の倉田は恐怖におののき、なんとか逃げたつもりだったが…。
 
 次の日、何者かによって倉田家の花壇は踏み荒らされていた。その後、傷ついた子猫がポストに放り込まれた。そして車を傷つけられた。あの男の仕業なのか?警察は被害届を受理するが、この程度の事で捜査を開始しない。あの男は自分の家を突き止めたのか。倉田家に恐怖が走る。
 
 一方、自分が総務部長を務めるナカノ電子部品において、倉田は営業部長の真瀬に不信感を覚える。2000万の在庫が足りない。指摘してその途端に、在庫は現れた。これはどうなっているのだ。
 その後も真瀬についてはおかしい行動が目につく。ところが押しの強い真瀬に口では抵抗できないのが倉田であった。
 
 
 
 二つの事件は、それぞれ、別の物語として発展する。一つは自分の家庭に向けられた悪意のサスペンス。もう一つは著者真骨頂の企業ミステリーである。別々の小説にしたって絶対面白いと思う。そう言う意味ではなんと贅沢な小説かと驚く。
 
 その家庭に向けられた悪意のサスペンスの方では、正体不明のストーカーに対して、「名無しさん」と言う表現が使われている。リアルな世界では思う様に自分の意見が言えず、口ごもってしまう人でも、ネットの匿名になると、言いたい放題、やりたい放題が出来る様になる。
 現実逃避し、バーチャルな世界に逃げ込んだ者が、やがてリアルとバーチャルの境目が分からなくなり、現実にバーチャルな自分を持ち込んでしまう。バーチャル世界で巨大化した悪意はそのまま現実社会に持ち込まれ、彼の悪意は開花する。
 彼にとって開花した悪意は正義なのだ。正義の鉄槌を振り下ろすのに躊躇は無い。しかし、彼よりも力を持った者が彼を制し、完膚なきまでに打ちのめしたとき、彼のリアルは初めて訪れる。
 この作品の展開もこのようなものなのではないかと思う。しかし、「名無しさん」と言うのも言い得て妙だ。
 
 
 一方、倉田の務めるナカノ電子部品株式会社である。倉田は銀行からの出向であった。社長は銀行からの融資が有利になるのではないかと、軽い気持ちで倉田の出向を受け入れたに過ぎない。
 倉田はなんとかナカノ電子部品の一員になろうと努力するが、所詮は「銀行さん」であった。社長は実績のある真瀬を信用し、倉田の進言など歯牙にもかけなかった。倉田の進言を受け入れていれば出なかった損害も「仕方がない」と言い切る。
 しかし、真瀬と倉田は対決しなければならなかった。
 
 
 実は「下町ロケット」を読んだ後で、見劣りするのじゃないかと言う不安があった。それだけ「下町ロケット」が素晴らしかったからである。だが、それは杞憂だった。本作は「下町ロケット」とは多少種類が違う。企業小説に家庭サスペンスが加わった二段構造になっているからだ。
 繰り返し言うが、別々にできたであろう傑作を、あえて一作にしてしまったこの贅沢さがこの小説の売りだと信じて疑わない。