yokohamanekoの日記

横浜で猫2匹と暮らしております。

「夜のピクニック」恩田睦

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夜のピクニック」恩田睦 新潮文庫

本の帯や、裏表紙の能書きを見ても、さほど興味を引く内容では
なかった。
「高校生活」「歩行祭」「青春小説」
それらのキーワードに私の興味を引くようなものは無かったのである。

しかし映画化ということで平台には山積みにされている。そしてひとつだけ
気になったのは「第二回本屋大賞受賞作」とあることだ。
本屋大賞というのは審査員がおらず、全国の書店員がお客様に是非お奨め
の本を選ぶ、という主旨なのだそうだ。

その第一回受賞作が小川洋子さんの「博士の愛した数式」である。
短時間で記憶を失ってしまう数学博士と、彼のお手伝いさん親子のふれあい
を描いた作品である。博士は数式を短たる数字の羅列とは捉えず、まるで
芸術を慈しむ様に愛した。彼のお手伝いさんとその息子も博士を愛した。
しかし、短時間で記憶をなくす博士。毎日が一からやり直しの人間関係。
そんな切ない物語である。
私の中で、この作品への評価は高い。ならばそれと並び立つ「夜のピクニック
にも期待が出来るのではないかと購入した。


舞台は北高、一大イベントの「歩行祭」の中で物語は進む。「歩行祭」は昼夜
を通して八十キロ歩行するという、多少乱暴なるイベントである。
主人公の甲田貴子と西脇融には秘密がある。
それまで別々の世界にいて、お互いをなんの対象として捉えていいのかも
分からなかった二人が、高校で同じ世界に放り込まれ苦悩する。
高校三年、同じクラスになった二人だが、口をきくどころか、近寄ることすら
できない。そして貴子は「歩行祭」で賭けに出た。

この小説の変わったていると思えるところは、舞台設定が最初から最後まで
まったく同じと言うことだ。「歩行祭」だけなのである。歩いているだけ。
ただ、歩いている人間はいろいろ変わる。個性豊かなるキャラクターが次々
と登場する。その一人一人が小さくとも意味のある物語を背負って登場する。

それはミュージカルや芝居などに似ている。舞台という限られた空間の中に
次々と役者が現れ、消えては物語を紡ぎ出していく。物語がどんなに壮大で
あろうとも、舞台の大きさが変わる訳ではなく、その小宇宙の中での喜怒哀楽
が見ものなのだ。

それと同じことが「夜のピクニック」でも試されている。登場人物のもたらす情報
は本筋に関係があったり、なかったりする。そして登場人物のキャラクターは
実に個性的である。社会という理不尽の吹き溜まりの中で、無個性にされる前の
貴重な人間模様などと言ったら大袈裟だろうか…。

少しばかりの重荷を背負っている貴子と融。歩きながら、状況は変わっていく。
八十キロの道のりを終えた時、二人はどう変われるのか、変われないのか。


人生はよくマラソンに例えられる。マラソンに例えられるならば歩行に例えらない
筈はない。まったく偶然だが、私は最近、「感動FLASHWalking tour』」なる
記事を転載した。ごらんになってらっしゃらない方は見てほしい。
ようするにアニメーションなのだが、描いているのは人生そのものである。
歩いていく者を生きて行く者として表し、死を立ち止まって表している。私
の脆弱なるボキャブラリーでは何も伝わらないが、ご覧になれば一目瞭然だ。

Walking tour」ほどの劇的感動は無いものの、「夜のピクニック」にも終了
の充実感とともに、始まりの期待感をもって読み終われるはずである。
青春小説などと、とってつけたような言い回しは好きではないのだが、この
小説にはその呼び名をつけても良いような気がする。


同世代の高校生より、その昔高校生だった中年の方々への方が説得力の
ある小説かもしれない。
古い話しで恐縮だが、昔、「森田公一とトップギャラン」なるグループがあり、
そのままずばり「青春時代」という曲を演奏していた。
その歌詞の中に
「青春時代が夢なんて、後からほのぼの思うもの」
とある。

総天然色の彩りが、やがて色褪せてセピア色に変わる。しかし色を失った
筈のその映像が、時の積み重ねとともに輝きを増し、その人の心に永遠に
生き続けるのだ。

それが青春。

話しが逸れた。
青春談義についてはまた機会があったら…。

言い訳なのだが、どうも少し疲れが溜まっているせいか、
文章の主旨がかなり支離滅裂になってしまった。
申し訳ありませんでした。    <(_ _)>ぺこり