yokohamanekoの日記

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「沈黙」遠藤周作

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「沈黙」 遠藤周作 新潮文庫

実を言うと、今更、遠藤周作さんの小説を読もうとは思っていなかった。
遠藤さんと言うとテレビのコメンテーターのイメージが残っており、作家と
言う印象がないのである。確か「違いのわかる男」とかってキャッチコピー
でコーヒーのCMにも出演していらしたと記憶がある。

狐狸庵先生と言われていたのも記憶にはあるが、何はともあれ、作家と
いうよりは、テレビに出てる偉い先生と言った方が手っ取り早かった。
それになによりも、その当時、私自信に読書の習慣など、かけらも無かった
せいで、不勉強ながら、一文も拝読させていただくことが無かった。

しかし、この「沈黙」が書店の店頭に山積みになるにつけ、ようやく手に取り、
読むきっかけとなったのであるが、それが、没後十年の区切りとなっていよう
とは少し皮肉な感じもする。


さて、物語の頃は、島原の乱の後と言うから、1637年以降、江戸幕府
三代将軍家光の時であろう。鎖国時代である。
遡る事、1549年(天文十八年)、フランシスコ・ザヴィエルの来日によって
広められたキリスト教は、鎖国の原因の一つにもなった。
何故なら、神を絶対の信仰の対象とし、これに反する行為は、例え幕府の
命令であろうと従わない信者を、時の権力者たちが黙って見過ごす筈はない。
幕府の管理体制には一切の反抗など許されない。江戸幕府の政治体制を
乱す怖れのある集団は徹底的に弾圧された。

そんな折、弾圧される日本の信者を勇気付けるべく、ポルトガルから三人の
司祭が苦難の旅を克服して、マカオに到着し、二人が日本に潜入した。
先導役として日本人のキチジローが同行したが、彼が裏切った。

司祭ロドリゴは捉えられ、棄教を命ぜられるが、拒否する。
幕府の役人は、日本人信者達を拷問にかけ、更に棄教を迫った。
ロドリゴは神の声を待った。ひたすらに待った。しかし、神は沈黙したままだった。


私は指示する宗教というものを持たない。無宗教主義である。
かと言って、宗教そのものを否定したりはしていない。民主主義の国、日本
では宗教の自由が認められており、信仰を持たない事も認められている。
多くの日本人がそうであるようにだ。現在の日本人はそれほど宗教に依存
してはいない。日本に限った事ではないが、発展途上国に比べると、先進国
の宗教依存度というのはさほど高くはないのだ。

現在、イスラム教徒と、他宗教の対立を考えて見れば分かると思う。
ムハンマドの風刺絵を巡り、イスラム教徒が激昂する事件があった。しかし、
先進国のイスラム教徒が抗議やデモであったのに対し、途上国では大使館
への暴動だの、国旗を焼くなどという、「暴力」が行われた。
コーランの教えによれば、イスラムに反するものは、攻撃してよいとあるらしい。
それはジハード(聖戦)として認められているのである。
しかし、先進国の教徒達にとって、コーランは確かに大事だが、それよりも
その国の常識や、ルールが優先される。いくらジハードが認められるといっても
暴力を持ち出したりはしない。
しかし、宗教依存度の高い途上国の教徒達にとって、コーランは絶対である。
生活の全てがコーランと直結するとまではいかなくても、それに準ずるだろう。

この小説に生きる時代の日本人、とくに農業従事者の貧しさは酷いものだったろう。
だとすれば、いかにキリスト教に対する依存度が高かったか想像に難くない。
秀吉がバテレン追放令を出し、家康が絵踏みの制、禁書令と、禁教制度を強化
しても、信者を撲滅する事は出来なかったことを考えれば分かる。

そんな中に飛び込んできたのがロドリゴ司祭だったのである。
この小説はロドリゴ司祭の心の動きを描いた作品である。正直言って、これほど
までに重いテーマの作品とは思ってもみたかった。
捕らえられたロドリゴ司祭が、自分自身でなく、信者を拷問にかけられた苦悩は
まさに筆舌し難いものである。棄教を迫られ、拒否し、
しかし、神は沈黙したままなのだ。

沈黙という言葉がこれほどまでに重苦しく感じる事はなかった。